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CHAPTER 5 — KANSETSU & THE PATH OF PHILOSOPHY

画家たちの北白川
— 白沙村荘・関雪桜・哲学者の道

銀閣寺の参道から白川通までの数百メートル。
その小さなブロックに、画家の理想の庭と、哲学者が歩いた疏水の道が、
100年前から並んで存在しています。

銀閣寺の参道入口から白川通の交差点までの、わずか300mほどの区間。今出川通の南側を歩くと、唐突に長く続く白い土塀に出会います。塀の向こうには、樹齢を重ねた松、苔むした石灯籠、五輪塔——ぱっと見では寺院のような佇まいですが、これは寺ではありません。大正から昭和にかけて京都を代表した日本画家・橋本関雪(はしもと かんせつ、1883〜1945)が、自らの設計で30年かけて築き上げた庭園と邸宅、「白沙村荘(はくさそんそう)」です。

白沙村荘の南東、白川通と銀閣寺の参道のあいだには、もう一本の小径が走っています。明治23年(1890年)の琵琶湖疏水分線に沿って整備された管理用の道——いまの「哲学の道」です。20世紀初頭から京都帝国大学の哲学者たちがここを散策路として歩き、戦後の1972年に正式名称が与えられました。本サイト第1章・第2章でも触れたこの小径は、関雪が育てた桜並木と、西田幾多郎ら京都学派が思索した道が、一本のラインで重なる場所でもあります。本章では、その重なりの100年を辿ります。

CH. 5.1橋本関雪 — 神戸生まれの日本画家が北白川を選んだ理由

銀閣寺参道と白沙村荘付近の昭和初期写真
銀閣寺参道沿いの邸宅と樹木(昭和初期) 関雪が選んだのは、東山の麓の参道沿いという、京都の中心からは一歩離れた場所。山と街の境目にしか生まれない静けさが、ここにはあった。 京都府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」

橋本関雪は1883年(明治16年)11月10日神戸に生まれました。本名は関雪(かんせつ、本名・貫一)。父・橋本海関は儒学者で、家には早くから漢籍と中国文化への眼差しがありました。京都に出て竹内栖鳳(たけうち せいほう)の門下に入り、日本画家としての地歩を固めます。1916年(大正5年)と翌1917年(大正6年)の文部省美術展覧会(文展)で連続して特選を受賞、京都画壇の中堅として広く知られる存在になりました。

関雪は生涯に30回以上中国へ渡航し、中国の山水・古典・墨書から多くを学んだ画家です。歴史画・人物画を得意とし、画題には『史記』『三国志』『故事来歴』が頻繁に登場します。一方で、彼は単に絵筆だけで完結する画家ではありませんでした。中国の山水画の世界観を、自分が住む土地の上に立体として再現したい——その欲望が、北白川の土地と庭園作りに向かいます。

銀閣寺の隣という土地を選んだ理由は、想像するしかありません。京都市中心部の喧騒から一歩離れ、東山の麓に位置し、疏水分線の水の音が聞こえ、銀閣寺の禅の気配を借景にできる——画家が自分の理想の山水画を地上に組み立てるためには、これ以上の土地はなかなか見つからない場所だったはずです。

CH. 5.2白沙村荘 — 30年がかりで作った「立体の山水画」

1916年(大正5年)、文展で特選を受けた33歳の関雪は、銀閣寺の参道沿いの土地を入手し、白沙村荘の造営を始めます。庭の設計から建物の配置、池の形、石灯籠や五輪塔の選定まで、ほとんどすべてを関雪自身が指示しました。庭師に「任せる」のではなく、自分で石の向きを決め、樹木の植栽位置を細かく図面に落とし込んだ——関雪にとって白沙村荘は、もう一つの大きな画布だったのです。

庭園の中央には池が掘られ、東山を借景に取り込む配置で配石が組まれます。庭内には持仏堂、画室、茶室が点在し、敷地全体が中国山水画の世界を3次元化した「立体の山水画」として構成されました。鎌倉期・室町期の石仏や五輪塔を実際に古寺院から取り寄せて据えることで、庭に歴史の厚みを与えるという手法も用いられています。国の名勝に指定されており、庭園としての価値も公的に評価されています。

関雪は1945年(昭和20年)2月26日、終戦の半年前に61歳で逝去。白沙村荘は妻のよねによって守られ、戦後は橋本関雪記念館として一般公開されました。現在も、画室・持仏堂・茶室・庭園を巡る形で見学できます。庭園内の建物には関雪の代表作の複製や下絵、画材、所蔵していた古美術品が展示されており、画家の制作環境を含めて理解できる、京都でも数少ない記念館です。

【いまのここ!】白沙村荘 橋本関雪記念館
白沙村荘 橋本関雪記念館(左京区浄土寺石橋町37)。市バス「銀閣寺道」停留所から徒歩約1分、銀閣寺総門に向かう参道の左手。Bello Vero から白川通を南へ徒歩約8分。庭園と建物群(持仏堂・画室・茶室)を巡る回遊式の構成。春は関雪が植えた桜と山桜、秋は紅葉の名所としても知られる。

CH. 5.3関雪桜 — 1921年、よね夫人の発案から300本の寄贈へ

春の哲学の道を歩いたことがある方なら、疏水分線の両側に続くピンクのトンネルを覚えていると思います。約2km・約400本の桜並木。京都市内でも有数の桜の名所で、京都市は「日本の道100選」にも選定されています。この並木の起源を辿ると、ある画家夫妻の「京都への報恩」に行き当たります。

1921年(大正10年)、白沙村荘での暮らしが板についた関雪夫妻は、自分たちを画家として育ててくれた京都の街への感謝を、具体的な形にすることを考えました。「桜を植えてはどうか」と提案したのは、妻のよね(米)夫人。関雪はその発案を受け、自費で約300本の桜の苗木を京都市に寄贈します。苗木は、明治23年(1890年)に完成していた琵琶湖疏水分線の両岸——いまの哲学の道のルート——に植えられました。

その後、戦後の埋め立て計画や老木化に直面した時期もありましたが、地元住民の「関雪さんの桜を守れ」という保存運動が功を奏し、並木は補植を重ねながら守られていきます。現在も、樹高の高い古木と若い補植木が混在する形で、約400本の桜が哲学の道を彩り続けています。桜並木の通称「関雪桜(かんせつざくら)」は、いまも京都市内で広く使われる呼称です。

春、桜のトンネルの下を歩くとき、足元の疏水分線の流れと、頭上の花の天蓋を同時に意識してみてください。明治23年に通水した琵琶湖の水、大正10年に植えられた関雪の桜、昭和47年に名付けられた「哲学の道」——三つの時代の積み重ねが、この約2kmの小径の上で、いまもひとつの風景として動いています。

【いまのここ!】関雪桜の起点・銀閣寺橋
関雪桜の並木は、北端の銀閣寺橋(白川通×今出川通から銀閣寺方向に少し入った位置)から始まり、南は若王子(にゃくおうじ)神社近くまで、疏水分線に沿って約2km続きます。北端から南端までの所要時間は徒歩約30〜40分。中ほどには法然院・大豊神社・霊鑑寺など、立ち寄りやすい寺社も点在します。

CH. 5.4西田幾多郎と京都学派 — 疏水分線を歩いた哲学者たち

哲学の道のもう一人の主役は、京都帝国大学の哲学者・西田幾多郎(にしだ きたろう、1870〜1945)です。石川県出身の西田は、1910年(明治43年)に41歳で京都帝国大学に招かれ、1928年(昭和3年)に定年退官するまで、京都の哲学界の中心人物として活動しました。退官後も京都に住み続け、関雪と同じ1945年(昭和20年)6月7日、敗戦の2ヶ月前に75歳で逝去しています。

西田の哲学は、東洋の思想の地盤の上に西洋哲学を摂取して独自の体系を組み上げる「西田哲学」と呼ばれ、近代日本における最初の独創的な哲学体系と評価されています。西田を中核に、後継者である田辺元(たなべ はじめ)、弟子の三木清・西谷啓治・高山岩男らが集い、「京都学派」と呼ばれる学問グループが形成されていきました。

西田や田辺、そして弟子たちは、京都帝国大学の研究室から銀閣寺方面へ歩き、疏水分線沿いの小径を散策しながら思索することを習慣としていました。当時この道は「文人の道」「散策の道」「思索の道」など複数の呼び名で親しまれており、1972年(昭和47年)に地元住民の保存運動を経て、現在の「哲学の道」として正式に命名されています。

道の中ほど、法然院近くの石碑には、西田が詠んだ和歌が刻まれています。「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」。この歌碑は1981年(昭和56年)に建立されました。哲学者個人の歌の石碑が、ガイドブックにも載るほど街の風景の一部になっている事例は、京都でもここだけです。

【いまのここ!】西田幾多郎の歌碑(法然院近く)
哲学の道の中ほど、法然院橋の北側に西田幾多郎の歌碑が立っています。1981年建立。歌碑の前で立ち止まると、観光の足音もスマホの通知も急に遠くなり、100年前の哲学者の散歩の時間に少しだけ戻ったような気分になれる、不思議なポイントです。

CH. 5.5法然院と文化人の墓所 — 谷崎潤一郎・河上肇が眠る山ふところ

哲学の道の中ほど、関雪桜の並木から東へ少し折れて山側に登ると、苔むした茅葺きの山門が現れます。法然院(ほうねんいん)。鎌倉時代に法然と弟子たちが「六時礼讃(ろくじらいさん)」という1日6回の念仏修行を行った草庵がそのはじまりで、現在の伽藍は1680年(延宝8年)、知恩院第38世・萬無(ばんぶ)によって再興されました。正式名称は「善気山法然院萬無教寺」、浄土宗系の単立宗教法人です。

法然院は哲学の道沿いの寺院のなかでも、特に「文化人の終の住処」として知られています。境内の墓地には、近現代の京都に縁のある多くの文化人が眠っています。代表的なところでは、小説家の谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886〜1965)、マルクス経済学者の河上肇(かわかみ はじめ、1879〜1946)、版画家の内藤伸(ないとう しん)、画家の福田平八郎(ふくだ へいはちろう)、九鬼周造(くき しゅうぞう、京都学派の哲学者)など。京都を愛した近代日本の知性たちが、東山の山ふところで静かに眠っています。

谷崎潤一郎の墓は、「寂(じゃく)」「空(くう)」と刻まれた二つの自然石が、しだれ桜の下に並ぶ静かな佇まい。谷崎は晩年を京都の下鴨で過ごし、『細雪』『蓼喰う虫』『陰翳礼讃』などの代表作の多くを京都の風土のなかで仕上げました。「日本の陰翳の美学」を文体として確立した谷崎が、銀閣寺の「漆黒の美」(第3章参照)と同じ山ふところに眠っていることに、なにか不思議な符合を感じます。

法然院の山門は、観光寺院のような派手な装飾を一切持たない、苔と茅と土の質感だけで構成された素朴な茅葺き。山門の内側には白砂壇(びゃくさだん)と呼ばれる二つの白砂の盛り上がりがあり、季節ごとに描かれる模様が変わります。境内には善気水(ぜんきすい)という湧水があり、第6章で扱う北白川扇状地の伏流水脈の一端が、ここでも地表に戻ってきています。本堂・方丈は通常非公開ですが、毎年4月1日〜7日、11月1日〜7日の年2回、内部の特別公開が行われています。

関雪桜の樹齢を重ねた古木と、文化人たちの墓と、法然院の山門と善気水——哲学の道のこのあたりは、桜の季節以外にも、訪れるたびに「静かな密度」を感じさせる一帯です。Bello Vero で食事をしたあとの夜の散歩(第7章参照)で、法然院橋の交差点まで足を伸ばすと、まったく別の京都に出会えます。

【いまのここ!】法然院
法然院(左京区鹿ケ谷御所ノ段町30)。哲学の道のほぼ中央、銀閣寺橋から南へ徒歩約15分。茅葺きの山門と白砂壇、文化人の墓所、善気水の湧水。境内は通年無料で散策可能、本堂・方丈は4月1〜7日と11月1〜7日のみ特別公開。

CH. 5.6第三高等学校から京都帝国大学へ — 1889年・1897年の二つの転機

橋本関雪が白沙村荘を構え、西田幾多郎が哲学の道を歩く——大正期の北白川を「アートコロニー」と呼べる土地にしたもう一つの装置が、近代教育機関の集積でした。中心になったのが、いまの京都大学吉田キャンパスの位置にあった二つの学校の歴史です。

第一の転機は1889年(明治22年)9月。それまで大阪の中之島にあった第三高等中学校(後の旧制第三高等学校=三高)が、京都の吉田に校舎を新築移転します。第三高等中学校は1869年(明治2年)に大阪で創立された舎密局(せいみきょく=化学局)を起源とする、近代日本の高等教育の中核校のひとつ。京都への移転で、吉田一帯は一気に「学生の街」の性格を帯び始めました。

第二の転機は1897年(明治30年)6月18日。勅令第209号により京都帝国大学が創設されます。三高の吉田校地はそのまま京都帝大の吉田キャンパスとして引き継がれ、三高自体は二本松地区(現・京大吉田南キャンパス)へ移転しました。1894年(明治27年)の高等学校令により、第三高等中学校は第三高等学校と改称されており、東京帝大予備門(一高)に対する西日本最大の予備校という性格を持っていました。

この二つの転機が北白川一帯にもたらしたのは、学生と教員と研究者が密集して住む街区の出現です。哲学者の西田幾多郎が1910年に京都帝大に招かれたのも、第三高等学校から京都帝大に至る教育機関の連続性があったから。古い農村と新しい大学が地続きで重なり、北白川は「農村と学園の混成地帯」へと変貌していきました。

1864年、尾張藩が吉田に京都下屋敷を新築したことで、第1章で扱った志賀越道が分断されました。明治22年(1889年)に第三高等中学校が同地に入り、1897年に京都帝大が継承——という流れのなかで、志賀越道は本部キャンパス内で完全に途切れます。第1章で「ななめの旅」が消える場所として触れた京大本部構内の地下に、いまも旧道の遺構が眠っているのは、この近代教育機関の整備の結果でした。「学園都市・吉田」と「画家村・北白川」と「哲学の道」は、19世紀末の一連の出来事のなかでセットで生まれたのです。

CH. 5.7アートコロニー北白川 — 画家・学者・職人が混じり合う街

関雪が白沙村荘を築いた大正期から昭和初期にかけて、北白川一帯には複数の画家・彫刻家・工芸家・学者が居を構えていきました。第三高等学校(後の京都大学教養部)と京都帝国大学が近く、京都市美術工芸学校・京都市美術専門学校(後の京都市立芸術大学)の学生・卒業生もこの地に集まる——いつしか「アートコロニー北白川」と呼ばれる、芸術家と学者が混在する独特の街区が形成されていきます。

北白川の特徴は、関雪のような大家から、無名の画学生、第6章で詳しく扱う石工職人、そしてシソ畑を耕す農家までが、同じ村のなかで隣り合って暮らしていたことです。京都市中心部の格式ある町衆文化とも、嵯峨や宇治のような閑居の風土とも違う、「街と山の境目」「学問と労働の境目」「芸術と日常の境目」に成り立っていた、混合性の高い場所。Bello Vero がこの土地でイタリア料理という外来の系譜の店を続けられるのも、たぶん、その混合性の伝統の末端にいるからだろうと思います。

白沙村荘の塀の外、関雪桜の下、西田の歌碑の前、京大の構内、北白川の路地——どこを切り取っても、ジャンルの異なる才能が同居していた100年前の空気が、いまもどこか残っています。北白川を歩くことは、京都の中心から少し外れたこの場所が、なぜ何度も何度も新しい文化の発信地になってきたのか、その理由を足の裏で確かめる作業でもあるのです。

CH. 5.年表北白川と画家・哲学者

年代だれが何があったか
1870年西田幾多郎石川県に誕生(5月19日)。
1883年橋本関雪神戸に誕生(11月10日、本名・貫一)。
1890年京都市琵琶湖疏水分線が完成、後の哲学の道の前身が整備される。
1910年西田幾多郎41歳で京都帝国大学に招聘される。
1916年橋本関雪白沙村荘の造営を開始(大正5年)、文展で特選。
1921年橋本関雪・よね京都市に桜の苗木約300本を寄贈、関雪桜の起源(大正10年)。
1928年西田幾多郎京都帝国大学を定年退官(昭和3年)。
1945年関雪・西田関雪が2月26日、西田が6月7日、同年に逝去。
1972年地元住民「哲学の道」として正式名称が定められる(昭和47年)。
1981年京都市・有志法然院近くに西田幾多郎の歌碑が建立される(昭和56年)。

CITY × DINNER関雪桜と哲学の道を歩いたあとの夕食

白沙村荘の見学、哲学の道の散策、法然院・大豊神社への寄り道。
Bello Vero(ベッロベーロ)は、京都・北白川の小さなイタリア食堂。22時まで通し営業しているので、午後から夕方の長い散歩のあと、ゆっくり食卓につけます。

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CH. 5.資料主要キーワード

橋本関雪(はしもと かんせつ、1883〜1945)

神戸生まれの日本画家、本名・貫一。竹内栖鳳に師事し、1916・17年と文展で特選。歴史画・人物画を得意とし、中国へは生涯30回以上渡航。1916年から銀閣寺前に白沙村荘を造営、自身の設計で30年かけて完成させた。

白沙村荘 橋本関雪記念館

関雪が大正5年(1916年)から造営した邸宅・庭園・画室・茶室。国の名勝に指定。現在は記念館として一般公開されており、関雪の代表作・下絵・所蔵古美術品が見学できる。

関雪桜(かんせつざくら)

1921年(大正10年)に関雪・よね夫妻が京都市に寄贈した約300本の桜苗木が起源。哲学の道に沿って約2km、約400本の桜が植わる。京都市「日本の道100選」。

西田幾多郎(にしだ きたろう、1870〜1945)

石川県出身の哲学者。1910年京都帝国大学招聘、1928年退官。「西田哲学」と呼ばれる独自の体系を構築し、京都学派の中核に。哲学の道の沿線を散策しながら思索したことが、道の名称の由来となった。法然院近くに歌碑(1981年建立)。

京都学派

西田幾多郎を起点に、田辺元・三木清・西谷啓治・高山岩男ら、京都帝国大学を拠点として展開した哲学グループの総称。20世紀前半の日本哲学を代表する系譜。

CH. 5.出典参考文献