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CHAPTER 4 — PHOTOGRAPHERS OF OLD KYOTO

黒川翠山が撮った銀閣寺
— 大正のガラス乾板と歴彩館アーカイブ

100年前の京都の朝霧を、ひとりの呉服屋の息子が、
アグファ製のガラス乾板に閉じ込めました。
アーカイブに眠る「止まった時間」を、いまの座標で呼び起こします。

スマホのシャッター音ひとつで一枚が完結する現代から、100年だけ時計を戻してみます。1920年代の京都。重い木製の三脚を担ぎ、割れやすいガラスの板を背中の箱に詰め、現像液の匂いを染み込ませた手ぬぐいを腰に巻いた一人の男が、銀閣寺の総門をくぐりました。京都西陣の呉服屋に生まれ、写真家を志した黒川翠山(くろかわ すいざん、1882〜1944)。彼が早朝の境内で待っていたのは、観光客のいない静寂と、雲を抜けて観音殿の漆黒に当たる、ほんの数秒の柔らかな光でした。

翠山の同時代、もう一つの写真の系譜が京都で動いていました。1887年(明治20年)に創業した美術出版社「便利堂」と、そのカメラマンたちです。彼らは芸術ではなく「文化財の正確な記録」のためにレンズを向けつづけ、1937年(昭和12年)には法隆寺金堂壁画の原寸大撮影という、世界的にも例のない仕事を成し遂げます。

そして現代。翠山のガラス乾板も、便利堂の記録写真も、いまは京都市左京区下鴨にある京都府立京都学・歴彩館のアーカイブのなかで、一枚ずつ高精細スキャンされ、Web で誰でも閲覧できる状態になっています。本章では、京都の写真史を3つの軸——翠山の芸術写真/便利堂の文化財写真/歴彩館のアーカイブ——から眺めていきます。

CH. 4.1黒川翠山 — 京都西陣の呉服屋から芸術写真の世界へ

黒川翠山撮影写真資料、銀閣寺
銀閣寺(黒川翠山撮影、大正期) 錦鏡池の水面に観音殿が溶け込む。翠山が好んだのは建物そのものよりも、池・木立・季節の光が織りなす「気配」だった。 京都府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」

黒川翠山は1882年(明治15年)、京都西陣の呉服屋に生まれました。本名は種次郎(たねじろう)。10代の終わりごろから写真に強い興味を持ち、当時まだ「職業」として確立されていなかった芸術写真の世界へ入っていきます。翠山が活動した時期は、写真を機械的な記録から「芸術」として捉え直そうとする運動——ピクトリアリズム(絵画主義写真/芸術写真)——が国際的に広がっていた時代と重なります。

翠山もこの流れの中心にいました。1906年(明治39年)の作品「題不詳」は、後にピクトリアリズムの代表的展示作品として紹介されることになります。彼の写真は、ピントを意図的に少しぼかし、構図を絵画的に取り、被写体そのものより「光と影と空気」の質を画面に定着させる方向に振れていました。神社仏閣・嵐山・嵯峨野・銀閣寺——京都の名勝を撮ったときも、彼の眼差しは観光案内的な「全景」ではなく、参拝者の足音が消える瞬間の「気配」を選んで切り取っていたのです。

翠山が使ったガラス乾板の多くは、ドイツの写真機材メーカーアグファ(AGFA)社製。日吉神社祭礼、銀閣寺、三船祭などを撮った乾板の長辺には、いまも「AGFA」の文字が反転して写り込んでいます。輸入品の乾板は当時の写真家にとって最高級の機材で、翠山がどれだけ作品の質にこだわっていたかが、その素材選びからも見えてきます。

【いまのここ!】翠山が見つめた銀閣寺の池
錦鏡池のほとり、観音殿が水面に映る位置。翠山のガラス乾板に残されているのも、この池畔から建物・池・東山を一枚に収めるアングルでした。現在の拝観ルートでは、観音殿の正面、池を回り込む小径の途中に、ほぼ同じ視点が確保できます。早朝〜午前中、光が東から差し込む時間帯がベスト。

CH. 4.2ガラス乾板の時代 — 1枚を撮るための1時間

翠山が使ったガラス乾板は、ガラス板に感光剤を塗ったもの。現代のフィルムやデジタルセンサーの遠い祖先にあたります。1枚を撮るためには、三脚を立て、構図を決め、被写体に蛇腹のレンズを向けてピントを合わせ、暗箱の中にガラス板を入れ、シャッター速度を慎重に計算する——準備だけで30分〜1時間かかることもありました。撮影後は暗室で慎重に現像し、定着し、乾燥し、ようやく一枚のネガになります。

露光時間も長く、わずかな振動で写真がブレるため、被写体には「動かないでください」と頼むのが当たり前。翠山が好んで撮った銀閣寺の早朝、雨上がりの石畳、雪の朝の参道——これらが選ばれた理由のひとつには、こうした技術的な制約もありました。風のない時間、人の少ない時間、光が安定している時間。機材の限界が、写真家を「静かな時間」へ追い込み、その制約の中で見つけた美が、ガラス板に焼き付いたのです。

ガラス乾板の弱点は、その脆さでした。割れやすく、湿気にも弱く、感光剤が剥離しやすい。日本に残る明治〜大正期のガラス乾板の多くが、戦時中の混乱・戦後の保管不備・カビ・温度差で失われています。翠山の乾板が大量に残されているのは、戦後に資料館へ寄贈された経緯と、寄贈先での保管環境の整備によるところが大きいのです。

CH. 4.3便利堂 — 1887年創業、コロタイプ印刷の世界唯一の工房

翠山が芸術写真を追求していた時期、京都にはもう一つ別の系譜の写真家集団がいました。1887年(明治20年)創業の美術出版社便利堂(べんりどう)です。創業者は中村弥二郎。中村家はもともと京都御所にも出入りした錫屋(茶器・酒器の製造)でしたが、明治維新による御所の東京遷都で家業が衰退。弥二郎は新しい時代の事業として、美術品の写真撮影と複製印刷を選びました。

事業を受け継いだ兄の中村弥左衛門が、現在の便利堂の基礎を作り上げます。1905年(明治38年)、便利堂はコロタイプ印刷所を開設。コロタイプ(collotype)は19世紀後半にフランスで発展した特殊な写真製版技法で、ゼラチンを感光剤として使い、網点を介さずに写真の濃淡をそのまま紙に転写するのが特徴です。網点印刷では失われてしまう微細な階調・色の重なり・墨の濃淡を、肉眼ではほぼ区別できないレベルで再現できる——この特性が、文化財の複製にとって決定的に重要でした。

便利堂が選んだ被写体は、芸術ではなく「文化財そのものの正確な姿」。仏像、絵巻、屏風、襖絵、古文書——日本の美術品が火災・戦災・経年で失われる前に、その原寸・原色を残すこと。それが京都という古都に立地する美術印刷所が引き受けた仕事でした。京都国立博物館・奈良国立博物館・東京国立博物館の所蔵品の写真複製の多くが、戦前から戦後にかけて便利堂で作られています。

現在も便利堂は京都市中京区に本社を置き、世界で唯一、文化財写真用のコロタイプ印刷を継続している工房として国際的に知られています。中京区の本社には「便利堂コロタイプギャラリー」が併設され、現代のコロタイプ複製品を間近に見ることができます。

【いまのここ!】便利堂本社(京都市中京区)
株式会社便利堂(京都市中京区新町通竹屋町下ル弁財天町302)。御所の南西、京都市役所からも徒歩圏。コロタイプギャラリーは平日に予約見学が可能。Bello Vero から市バス・地下鉄で約30分。

CH. 4.4法隆寺金堂壁画 — 1935年の撮影と1949年の火災

便利堂の仕事のなかで、もっとも歴史的に重要な達成が、1935年(昭和10年)に実施された法隆寺金堂壁画の撮影プロジェクトです。法隆寺金堂の内陣・外陣に描かれた、飛鳥〜白鳳期(7世紀末〜8世紀初頭)の壁画群。日本最古級の本格的な仏教絵画として、世界的にも極めて重要な文化財でした。

便利堂の写真技師たちは、金堂の薄暗い堂内に大型カメラと特注の照明機材を持ち込み、大型ガラス乾板を使って一面ずつ撮影。湿度・温度・光のコントロールが難しいなかで、壁画の原寸大に近いサイズの感光板を露光させていきます。撮影には数年を要し、その結果として363枚のガラス乾板が記録されました。

その14年後の1949年(昭和24年)1月26日早朝、法隆寺金堂で火災が発生します。原因は壁画の模写作業中に使われていた電気座布団の漏電と推定されています。火は内陣の壁画に達し、飛鳥期の壁画は焦げ・剥落して、もとの色を失ってしまいました。日本中の美術史研究者と文化財関係者が、戦後の混乱期にこの巨大な喪失を目の当たりにしたのです。

このとき、焼損前の壁画の姿を残しているただ一つの一次資料が、便利堂が14年前に撮影した363枚のガラス乾板でした。法隆寺金堂壁画は1967年(昭和42年)に重要文化財に指定され、便利堂のガラス乾板そのものも、後に「法隆寺金堂壁画写真原板」として国の重要文化財に指定されています。文化財の複製のために撮られた写真が、原本の喪失によって、それ自体が新たな国の重文として保護される——便利堂の仕事の意義を、これ以上に象徴する出来事はありません。

1949年の火災は、日本の文化財保護行政にも決定的な影響を与えました。火災の翌年、文部省の主導で文化財保護法(1950年公布)が制定され、文化財防火デー(1月26日、火災発生日)が制定。便利堂のスタッフ写真家——佐藤辰三・旭親子らによる、銀閣寺・東求堂同仁斎を含む全国の建築文化財の系統的記録も、この戦後の文化財保護体制のなかで継続されていきます。

CH. 4.5京の記憶アーカイブ — 翠山の写真がデジタル化されるまで

京都府は1963年(昭和38年)に京都府立総合資料館を開設し、京都に関する古文書・写真・絵図・図書を体系的に集積する事業を始めました。総合資料館は2016年(平成28年)に発展的に改組され、現在の「京都府立京都学・歴彩館(れきさいかん)」が京都市左京区下鴨半木町に開館しました。2017年(平成29年)に新館・本館の機能が整い、京都に関する研究・閲覧・展示の拠点として定着しています。

歴彩館の中核事業のひとつが、所蔵資料のデジタル化と公開。Web 上の「京の記憶アーカイブ」では、黒川翠山撮影写真資料、近藤豊撮影写真資料、便利堂関連資料、明治期の絵葉書、戦前の京都の街並み写真など、数万点規模のデジタル画像が、誰でも自由にアクセスできる状態で公開されています。2025年3月27日(令和7年)には「歴史資料アーカイブ」として大規模リニューアルされ、画像のIIIF対応、検索性、ライセンス表示が大幅に改善されました。

本サイト CITY ARCHIVE で第1章から扱ってきた絵図・写真の多くも、京都大学貴重資料デジタルアーカイブと、この歴彩館の「京の記憶アーカイブ」から提供を受けています。京都の街を400年・100年単位で振り返ることが、私たちのような小さなレストランのウェブサイトでも可能になっているのは、こうした公的アーカイブの整備があってこそ。100年前に翠山がガラス板に焼き付けた光は、いまも、デジタルの形で日々誰かのスマホに届きつづけています。

【いまのここ!】京都府立京都学・歴彩館
京都府立京都学・歴彩館(京都市左京区下鴨半木町1-29)。京都府立大学の隣、京都府立植物園の南。市バス・地下鉄烏丸線「北山」駅から徒歩約7分。閲覧室・特別展示室・カフェがあり、Web 上の「京の記憶アーカイブ」と合わせて、京都の歴史資料を扱う公的施設のなかでも最大規模。Bello Vero からは市バス1本でアクセスできます。

CH. 4.6歴彩館の使い方 — 一般人がアーカイブで遊ぶ方法

歴彩館は研究者だけのための施設ではありません。京都に住む人、京都を訪れた人、京都のことが好きな人なら、誰でも無料で利用できます。本章を読んだあとに「実際に古い京都の写真を自分で探してみたい」と思った方のために、現地での使い方とWebアーカイブの操作ポイントをまとめておきます。

1. Webから検索する
まずは家のPCやスマホから「京の記憶アーカイブ」(www.archives.kyoto.jp)にアクセス。検索窓に「銀閣寺」「北白川」「白川女」など、興味のあるキーワードを入れて検索ボタンを押すだけです。黒川翠山の写真は「黒川翠山撮影写真資料」、近藤豊の写真は「近藤豊撮影写真資料」でまとめて閲覧できます。1点ずつ画像を開いて、ピンチで拡大すれば、100年前の絵葉書や写真の細部まで自分のスマホで見られます。

2. IIIFビュワーで遊ぶ
歴彩館のデジタルアーカイブ(2025年リニューアル後の「歴史資料アーカイブ」)はIIIF(International Image Interoperability Framework)規格に対応しています。これは世界共通の高精細画像配信規格で、京大の貴重資料デジタルアーカイブ、大英図書館、ルーヴル美術館、フランス国立図書館などとも同じビュワーで横断的に扱えます。同じ画面で、京都の銀閣寺と、ロンドンの中世写本を、同じ拡大率で比べてみる——そんな遊び方ができます。

3. 現地に行く
どうしても現物が見たい資料がある場合は、地下鉄烏丸線「北山」駅から徒歩約7分の歴彩館本館へ。閲覧室は予約不要・無料で利用でき、所蔵資料を館内で閲覧できます(一部は事前申請が必要)。1階には特別展示スペースとカフェ、2階には京都府立大学附属図書館の機能。京都府立植物園と隣接しているので、植物園と組み合わせて1日コースにする使い方も気持ちが良いです。

4. 特別展示を覗く
歴彩館では年に数回、所蔵資料を主役にした特別展示が無料で開催されています。「京都の絵葉書」「明治の京都」「白川女と北白川の記憶」などのテーマで、Webでは見られない原本の物質感に触れられる機会。京都府立大学との合同企画展も定期開催。日程は公式サイト(rekisaikan.jp)でご確認ください。

本サイト CITY ARCHIVE で使った絵図・写真の出典に「京都府立京都学・歴彩館」とあるものは、すべてこの「京の記憶アーカイブ」から引用しています。あなたも今日、同じ資料を同じ画面で見ることができます——という、当たり前のようで奇跡のような状態が、いまの京都の公的アーカイブの到達点です。

CH. 4.年表京都写真史と歴彩館

年代だれが何があったか
1882年黒川翠山京都西陣の呉服屋に誕生(本名・種次郎)。
1887年中村弥二郎京都で便利堂を創業(美術印刷・出版)。
1905年便利堂・中村弥左衛門京都にコロタイプ印刷所を開設。
1906年黒川翠山作品「題不詳」がピクトリアリズムの代表作のひとつとして紹介される。
1935年便利堂法隆寺金堂壁画の撮影プロジェクト(363枚のガラス乾板)。
1944年黒川翠山逝去。
1949年法隆寺1月26日、金堂火災で壁画焼損。便利堂のガラス乾板が決定的な一次資料となる。
1950年文部省文化財保護法が公布。1月26日が文化財防火デーに制定される。
1963年京都府京都府立総合資料館が開設される。
1967年文化庁法隆寺金堂壁画が重要文化財に指定。便利堂のガラス乾板も後に「法隆寺金堂壁画写真原板」として重文指定。
1991年鈴鹿家今昔物語集 鈴鹿本を京都大学に寄贈(第8章で詳述)。
1996年文化庁鈴鹿本今昔物語集が国宝に指定(平成8年)。
2016〜17年京都府京都府立京都学・歴彩館が新館として開館。
2025年歴彩館3月27日、デジタルアーカイブが「歴史資料アーカイブ」として大規模リニューアル。

CITY × DINNER歴彩館の往復に、北白川のイタリアンを

歴彩館で京都の100年前の写真を見たあと、市バスで東へ。
Bello Vero(ベッロベーロ)は、京都・北白川の小さなイタリア食堂です。22時まで通し営業しているので、ゆっくりと一日の研究の余韻を味わってください。

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CH. 4.資料主要な「記録者」

黒川翠山(くろかわ すいざん、1882〜1944)

京都西陣の呉服屋に生まれた写真家。本名・種次郎。10代後半から芸術写真の世界に入り、明治末〜昭和初期の京都の神社仏閣・名勝を撮影。アグファ社製ガラス乾板を多用。彼の作品群は京都府立京都学・歴彩館に大量に所蔵され「京の記憶アーカイブ」で公開されている。

便利堂(べんりどう)

1887年(明治20年)創業の京都の美術出版社。1937年(昭和12年)の法隆寺金堂壁画の原寸大撮影で世界的に知られる。コロタイプ印刷技法による文化財記録のパイオニア。

京都府立京都学・歴彩館

京都市左京区下鴨半木町。京都府立総合資料館(1963年)を前身とし、2016〜17年に新館として開館。京都に関する古文書・写真・絵図を体系的に収集・公開する。Web 上の「京の記憶アーカイブ」「歴史資料アーカイブ」で大量のデジタル画像を公開。

CH. 4.出典参考文献