白川通を東へ一本入った瞬間、足元が緩く上り坂に変わるのを感じます。Bello Vero の店先で東を向いたときの、あの「上りはじめ」の角度——あれは、私たちが意識しないだけで、まぎれもなく比叡山の麓に立っているという物理的な証拠です。
北白川という街は、比叡山系から流れ出した砂と礫が長い年月をかけて堆積した扇状地(せんじょうち)の上に成立しています。山から市街地へ向かう緩い傾斜地、水はけのよい砂礫の地層、そして地下を磨き上げて湧き出す伏流水——この三要素が揃ったからこそ、北白川は白川砂・白川石・花卉・京野菜という、4種類のまったく違う産物を、同じ一つの場所で長く育てつづけてきました。本章では、この扇状地が作り出した食と工芸の系譜を、一次史料に近い順に整理していきます。
CH. 6.1北白川扇状地 — 比叡山が作った緩やかな坂道
地形図で北白川を見ると、比叡山(標高848m)と京都盆地のあいだに、緩やかな扇形の地面が広がっています。比叡山西麓を源流とする白川と、その支流が運んだ砂礫が、長い時間をかけて谷の出口に積み上がってできた地形。これが「北白川扇状地」です。北西〜南東方向に1〜2kmの幅で広がり、銀閣寺・北白川・浄土寺・東山ニノ橋あたりまでが、地質学的にはこの扇状地の範囲とされます。
扇状地の地質的な特徴は、表層に砂礫が多く、水はけが非常に良いこと。雨水も雪解け水も、地表に長く留まらず、地下の砂礫層を伝って下方へ移動していきます。その途中で砂や粘土の層に磨かれて、不純物を取り除かれた状態で、扇状地の末端(いまの北白川〜浄土寺あたり)で湧水として地表に戻ってくる——これが、第3章で触れた銀閣寺「お茶の井」の水脈であり、第1章で触れた疏水分線が活かしている地下水系の正体です。
地形は、街の性格そのものを決めます。北白川が単なる住宅地ではなく、石工・花売り・農家・画家・哲学者が混在する独特の街区になったのは、この扇状地という「素材の供給装置」が背後にあったからです。Bello Vero の店先の緩やかな上り坂は、その装置のいちばん端っこにある、ささやかなしるしのようなものです。
CH. 6.2北白川遺跡群 — 縄文中期から弥生中期までの定住
北白川扇状地が「人が住みやすい土地」であることは、4000年以上前から確かめられていました。その物的証拠が、いまも北白川一帯の地下に眠る北白川遺跡群(きたしらかわいせきぐん)です。1923年(大正12年)、考古学者の浜田耕作(はまだ こうさく、1881〜1938、京都帝大教授)が北白川追分町遺跡を発見して以来、十数次にわたる発掘調査が行われ、扇状地上に複数の集落跡が連続して存在することが明らかになってきました。
遺跡群は北東から南西にかけて、北白川上終町(かみおわりちょう)遺跡、北白川別当町・小倉町遺跡、北白川追分町遺跡、吉田山西麓遺跡に分かれており、北白川扇状地の傾斜に沿って、複数の縄文〜弥生集落が点在していたと推定されています。Bello Vero が立つ北白川久保田町もこの遺跡群のおおまかな範囲内に含まれます。
北白川追分町遺跡からは、複数の時代層の遺構が見つかっています。縄文時代中期末(紀元前2000年頃)の竪穴住居址2棟、縄文後期の配石・甕棺(かめかん)遺構、縄文晩期の集石土壙墓(しゅうせきどこうぼ)、弥生時代中期の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)。縄文時代から弥生時代にかけて、ほぼ連続して集落が営まれていたことを示す貴重な遺跡群です。さらに縄文晩期のトチノキ・イチイガシなどが混在する樹林跡も発見されており、この場所の植生がそのまま地下に埋もれて保存されていたことが分かっています。
北白川遺跡群は、考古学の世界で「西日本の扇状地集落の典型例」として位置づけられている重要遺跡。山地と平野の境目にあり、湧水と石材と狩猟場と農耕地が同時に得られる扇状地は、縄文時代の定住生活にとって理想的な立地でした。本章のCH6.1で触れた「扇状地という素材の供給装置」の話は、なにも江戸期から始まったわけではなく、少なくとも4000年前から、北白川は人が住みつづけた場所なのです。
遺跡そのものは現在、住宅地の地下に保存されており、地表からは見ることができません。京都大学総合博物館(第8章で詳述)と京都府立京都学・歴彩館(第4章で詳述)に出土品が収蔵されており、特別展示の機会に実物を見ることができます。Bello Vero の敷地の地下にも、もしかすると4000年前の誰かが落とした土器の破片が眠っているかもしれない——そう考えると、店の床下の土の重みも少し変わって感じられます。
北白川追分町(左京区)。京都大学農学部の北、白川通の東側に広がる住宅地。1923年の浜田耕作による発見以来の調査対象地で、京都市内でも有数の縄文〜弥生遺跡群が眠っています。地表からは普通の住宅地に見えますが、足元の土には4000年分の集落の記憶が積み重なっています。
CH. 6.3白川砂 — 銀閣寺の銀沙灘になった白い砂
京都の禅寺の枯山水庭園を訪れると、地面に敷き詰められた、不思議に明るく白い砂に目を奪われます。あの砂のほとんどは、北白川扇状地の上流——比叡山西麓の花崗岩(かこうがん)が風化してできた、いわゆる「白川砂(しらかわすな)」です。比叡山を構成する黒雲母花崗岩は、長い時間をかけて風雨や寒暖差で粒子に砕け、白川とその支流に運ばれて、扇状地の上流から下流へと砂の帯を作りました。
白川砂は、京都の作庭文化を成立させた、もっとも基礎的な素材のひとつです。第3章で触れた銀閣寺の銀沙灘(ぎんしゃだん)に盛られた白砂も、もとを辿ればこの北白川上流から運ばれてきたもの。竜安寺の石庭、大徳寺塔頭の庭、南禅寺方丈の前庭——京都市内の名園の白砂の多くが、北白川という同じ山の同じ斜面に源流を持っています。
採取地は時代によって変遷しましたが、近世まで北白川仕伏町(しぶせちょう)から山中越にかけての斜面が、主要な切り出し場でした。大正期以降は、原料の枯渇と京都市の条例による規制で、この地での切り出しは段階的に縮小。昭和初期に石切場が閉山され、現在の銀沙灘や枯山水庭園で使われる白砂は、近隣の他の産地から補われています。「白川砂」という名前だけが、産地を離れていまも京都の庭園文化のなかで生きつづけています。
北白川仕伏町(左京区)。志賀越道が御蔭通へ合流する手前、銀閣寺から北東へ徒歩約15分の住宅地。江戸〜明治期の白川砂の切り出しと加工が行われた地区で、いまも町名にその痕跡が残っています。山際の細い路地に、かつての石工と砂取りの面影が静かに沈んでいます。
CH. 6.4白川石と石工66戸 — 北白川の男たちの仕事
同じ比叡山系の黒雲母花崗岩(こくうんも かこうがん)を、砂のサイズではなく、塊として切り出して加工する仕事——それが「白川石(しらかわいし)」の石工の仕事でした。白川石は、白色に近い中粒の緻密な石材で、灯籠・手水鉢・墓石・建物の礎石・玉垣など、京都市内の近世建築・庭園建築のほぼすべてに使われていた基幹素材です。
江戸期の地誌『都名所図会』には「北白川の里人は石工を業(なりわい)として、常に山に入て石を切出す」という記述があります。『東北歴覧之記』にはさらに具体的に「農業の暇、石工を事とし、入山して石を採り、市中で売る。俗に白川石と称す」と記録されており、農業と石工を兼業する形が江戸期から続いてきたことが分かります。本サイト第1章でも触れたとおり、1888年(明治21年)の北白川村統計では、総戸数305戸のうち66戸が石工、つまり5戸に1戸が石を扱う家でした。
石工の最盛期は明治後期で、北白川の石工は最大で200人を超えたと伝わります。京都市内の石屋・石材商の7〜8割は北白川出身とも言われ、いまも代を継いで市内で商いを続ける家が残っています。大正期以降は、近代化に伴う石材需要の変化、原料花崗岩の枯渇、京都市の景観保全条例などが重なり、北白川での切り出しは段階的に縮小。昭和初期に石切場は閉山され、現在の北白川では石の切り出しは行われていません。
「北白川には男は石工、女は白川女」という慣用が長く語り継がれてきた背景には、こうした産業構造があります。山から切り出される石、谷から流れ出す水、扇状地に育つ花と野菜。男たちが山に入り、女たちが街へ運ぶ——北白川という街は、扇状地の二つの端を、男女の職業で結んでいた集落でもあったのです。
CH. 6.5白川女 — 1000年続いた花売りの女性たち
白川女(しらかわめ)は、北白川の女性たちが頭の上に花や農産物を載せた籠を据え、京都市内の町家・寺社・御所まで売り歩いた、平安期から続く独特の行商の系譜です。伝承では、平安期に三善清行(みよし きよゆき、847〜918)の発案で、北白川の女性が京都御苑に花を届けたことに始まると伝えられています。一次史料での厳密な裏付けは難しいものの、平安〜中世にかけて北白川一帯が「花所」として知られていたことは、複数の文献に登場します。
北白川という土地が花の産地として選ばれたのは、扇状地の特徴がそのまま花卉栽培に向いていたからです。水はけが良く、午前中から日差しが入る東向きの傾斜地、近くに豊富な伏流水——花を育てるには理想的な条件が揃っていました。「男は石工になり、女は花を作り、白川女として都へ行商に出る」という分業の慣行は、その地形条件から自然に生まれた、北白川独特の経済構造でした。
白川女の活動は江戸時代から本格的に商業化され、明治期に最盛期を迎えます。「その時代、ほとんどの女性が15歳になると白川女になった」と伝わるほど、街区全体で従事した職業でした。京都御苑への花の献上が毎年の慣例として続き、1970年(昭和45年)頃まで御所への献花は途絶えずに行われていました。
白川女の伝統的な装束は、白の下着、紺もしくは黒木綿の着物、三幅の前垂れ、白脚絆と白足袋、頭に箕(み)を載せて花籠を据える——という構成。襷(たすき)の色は年齢で使い分けられていました。21世紀の現在では、現役の白川女はわずかな高齢者を残すのみとなり、毎年10月の時代祭で大原女・桂女と並んでその出で立ちを見ることができる程度に縮小しています。Bello Vero の窓の外を、いまでも10月の時代祭では白川女に扮した女性たちが歩いていきます。1000年前から続いてきた「花のサイクル」は、いまは年に1日だけの仮装行列のなかに沈んでしまいました。
白川女の毎日のメインルートは、北白川から今出川通を西へ進み、河原町今出川を経て京都御苑(御所)へ。あるいは寺町通の社寺へ。Bello Vero の店先から今出川通を西へ歩くと、すぐに白川女が通った旧道のラインに乗ります。
CH. 6.6京野菜の系譜 — 鹿ヶ谷かぼちゃと久保田町のシソ
京都市左京区は、京の伝統野菜の産地としても語られる土地です。京都府が認定する「京の伝統野菜」には現在、京水菜・賀茂なす・伏見とうがらし・万願寺甘とう・えびいも・九条ねぎ・京たけのこ・花菜・鹿ヶ谷かぼちゃ・堀川ごぼう・聖護院だいこん・京壬生菜・金時にんじん・くわい・やまのいも・紫ずきんなど、計十数品目が含まれています。
そのなかで、北白川の南、銀閣寺から徒歩圏の左京区鹿ヶ谷(ししがたに)を発祥地とするのが、ひょうたん形の鹿ヶ谷かぼちゃ(鹿ケ谷南瓜)です。文化年間(1804〜17年)、東山の農家が奥州津軽から持ち帰った南瓜の種を、現在の鹿ヶ谷の農家に分けて栽培したところ、東山の地味で扁平な菊座形からひょうたん形に変異した——という由来が記録に残されています。皮は深い緑、果肉はほくほくした食感で、夏のお盆の精進料理「鹿ヶ谷かぼちゃ供養(安楽寺)」でいまも振る舞われる、京都の伝統野菜のひとつ。
Bello Vero が立つ北白川久保田町(くぼたちょう)一帯は、江戸〜昭和期にかけて、京都市内の赤ジソの主要産地のひとつでした。地元の小学生が編纂した『北白川こども風土記』(1959年・昭和34年)には、初夏になると一面に広がるシソ畑の香りが、比叡山からの風に乗って街中に漂っていた様子が記録されています。「しば漬け」「梅干し」「赤しそジュース」など、京都の漬物文化と直結する素材として、北白川のシソは長く重要な役割を担いました。
戦後の住宅化でシソ畑そのものは姿を消しましたが、Bello Vero の鮮魚のカルパッチョに使う大葉(青ジソ)の香りや、近隣の漬物店に並ぶしば漬けの色には、その記憶がうっすらと続いています。私たちが店で使うハーブの香り、土の匂い、近くの畑から届く季節の野菜の質感——どれもが、扇状地の地下水脈と、シソを育てた土の記憶の延長線上にあるのです。
安楽寺(左京区鹿ケ谷御所ノ段町21)。哲学の道の南、法然院のさらに南に位置する小さな寺で、毎年7月25日に「鹿ヶ谷かぼちゃ供養」が行われ、参拝者にこの伝統野菜を煮物として振る舞います。京都の真夏の風物詩のひとつ。
CH. 6.年表北白川の地形と食
| 年代 | だれが/なにが | 何があったか |
|---|---|---|
| 縄文期 | 北白川の先住民 | 遺跡から赤ジソの種子・どんぐり・土器が出土。 |
| 平安期 | 白川女(伝承) | 三善清行の発案で北白川の女性が御所に花を献上したと伝わる。 |
| 江戸前期 | 北白川の里人 | 『都名所図会』に「白川石」の切り出しが記録される。 |
| 1804〜17年 | 東山の農家 | 奥州津軽の南瓜種子から鹿ヶ谷かぼちゃが分化する(文化年間)。 |
| 1888年 | 北白川村 | 戸数305戸のうち66戸が石工(明治21年統計)。 |
| 明治後期 | 白川女 | 商業化が進み最盛期、街区の若い女性の多数が従事。 |
| 1959年 | 北白川小学校児童 | 『北白川こども風土記』を編纂・刊行(昭和34年)。 |
| 昭和初期 | 京都市 | 北白川の石切場が閉山、白川石の切り出しが終了する。 |
| 1970年頃 | 白川女 | 京都御所への花の献上が途絶える(昭和45年頃)。 |
CITY × DINNER扇状地の上で食べる、北白川のイタリアン
白川を遡って仕伏町まで歩いた帰り、あるいは鹿ヶ谷から哲学の道を北上した夕方に。
Bello Vero(ベッロベーロ)は、北白川扇状地の末端に立つ小さなイタリア食堂。22時まで通し営業、京野菜を使ったその日の小皿も用意しています。
- 銀閣寺道バス停から徒歩約7分
- 13:00〜22:00 通し営業(月曜定休+不定休)
- カウンター席あり・お一人様歓迎
- ベジタリアン・グルテンフリー対応可
CH. 6.資料主要キーワード
北白川扇状地
比叡山西麓を源流とする白川・支流が運んだ砂礫が、谷の出口に堆積してできた扇形の地形。水はけが良く、扇状地の末端で伏流水が湧き出す。銀閣寺・北白川・浄土寺一帯がその範囲。
白川砂(しらかわすな)
比叡山系の黒雲母花崗岩が風化した白色の砂。京都市内の枯山水庭園(銀閣寺の銀沙灘、竜安寺の石庭ほか)の白砂の主要な原料だった。昭和初期に北白川での採取が終了。
白川石(しらかわいし)
北白川産の黒雲母花崗岩。白色で中粒の緻密な石材。灯籠・手水鉢・墓石・建物礎石として近世京都の建築・庭園に広く使われた。1888年の北白川村統計で、305戸中66戸が石工。最盛期は明治後期で200人超。
白川女(しらかわめ)
北白川の女性たちによる花・農産物の頭上行商。平安期の三善清行発案の御所献花が起源と伝わる。江戸期に商業化、明治期に最盛期。1970年頃に御所への献花が途絶。装束は白脚絆・三幅前垂れ・頭に箕と花籠。
鹿ヶ谷かぼちゃ
京の伝統野菜のひとつ。文化年間(1804〜17年)に奥州津軽の南瓜種子が左京区鹿ヶ谷で栽培され、ひょうたん形に変異した。安楽寺の「鹿ヶ谷かぼちゃ供養」(毎年7月25日)で振る舞われる。
北白川こども風土記
1959年(昭和34年)に北白川小学校の児童が編纂した郷土史書。明治〜昭和初期の北白川の生活・農業・石工・花売りの記憶を、当時の小学生の目線で記録した一次資料的な書物として評価されている。
CH. 6.出典参考文献
- 北白川小学校児童編『北白川こども風土記』(1959年)
- 京都府「京の伝統野菜・京のブランド産品」
- 京都市「京の伝統野菜について」
- 京都通百科事典「白川石」「白川女」「鹿ヶ谷かぼちゃ」
- 京都府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」
- 京都市左京区 鹿ケ谷 安楽寺 公式サイト
- 『日本服飾史』白川女の項