江戸時代も後半に差しかかった頃、日本中で「一生に一度は京都を見たい」という旅熱が高まっていきました。お伊勢参りや西国巡礼にかこつけて京都に立ち寄る人々が増え、街道沿いには宿屋と土産物屋が並び、旅人の手のひらには小ぶりの「案内本」が握られるようになります。情報源としての本、いまでいえばガイドブックや観光アプリにあたるこの種の出版物は、江戸期の京都を語る上で欠かせない存在になりました。
そのなかで、京都ガイドブック史の流れを一変させる一冊が、1780年(安永9年)8月、京都の版元から刊行されます。本文を京都の俳諧師・秋里籬島(あきさと りとう)が記し、挿絵を大坂の絵師・竹原春朝斎(たけはら しゅんちょうさい)が描いた、本文6巻・全11冊の大著——『都名所図会(みやこめいしょずえ)』です。本章では、この一冊の鳥瞰図を手掛かりに、銀閣寺と北白川の江戸期の姿を、現代の座標に重ねていきます。
CH. 2.1『都名所図会』 — 京都ガイドブック史の決定打
『都名所図会』が版を重ねるほどの大ヒットを記録した理由は、ひとつではありません。第一に、洛中・洛外にとどまらず山城国一円に範囲を広げ、社寺・名所・故事・特産物までを横断的に扱った網羅性。第二に、各場面に添えられた竹原春朝斎の鳥瞰図(高い視点から街全体を見下ろす構図)の精緻さ。第三に、本文に挿入された和歌・漢詩・俳諧の引用が、ただの地誌書を読み物として成立させたこと。江戸期の人々はこの一冊を片手に、まだ見ぬ京都の姿を頭の中で組み立て、実際に旅に出るときの予習書として愛読しました。
反響は版元の予想を超え、7年後の1787年(天明7年)には続編『拾遺都名所図会(しゅういみやこめいしょずえ)』が刊行されます。本編で取りこぼした寺社や、新たに人気を集めるようになった景勝地を補い、江戸後期の京都観光のスタンダードを完全に確立しました。秋里籬島はその後も『和泉名所図会』『摂津名所図会』『東海道名所図会』を次々と手がけ、図会という出版形式そのものを全国に広めていきます。秋里と竹原のコンビは、いわば「江戸期の旅メディア」を発明したプロデューサーと撮影監督だったのです。
面白いのは、秋里籬島の生没年がいまも明らかになっていないこと。安永から文政にかけて活動していたことは確実ですが、本籍は池田家、字(あざな)は商佑、号は籬島・籬島散人・籬島軒——いくつもの名前を使い分けた、当時としても少し謎めいた人物像が浮かびます。版元と読者にだけ知られた一種の「コンテンツ・クリエイター」だったのかもしれません。
『都名所図会』の原本は、京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(RB00008617)で全ページがオンライン公開されています。家にいながら、竹原春朝斎の描いた銀閣寺・南禅寺・百万遍の鳥瞰図を、240年前と同じ紙面そのままに読むことができます。スマホでズームすれば、参道の茶屋一軒一軒の屋根まで克明に見えてきます。
CH. 2.2図会に描かれた銀閣寺 — 参道の茶屋と「いまのここ」
『都名所図会』の巻三・東山之部には、銀閣寺(慈照寺)の鳥瞰図が見開きで描かれています。中央に錦鏡池と銀閣(観音殿)、その奥に東山が立ち上がり、手前から長い表参道が西へ伸びていく構図。参道の両側には大小の建物がびっしりと並び、笠を被った旅人や荷を担ぐ商人が点景として描き込まれている——いまの「銀閣寺道」バス停から銀閣寺総門までの道筋を、240年前の絵師が空から眺めた、貴重な視覚資料です。
参道沿いに描かれた建物の多くは、当時の茶屋・水茶屋・餅屋。江戸後期の京都郊外名所では、参拝そのものよりも、参道での飲食・物産が旅の主目的になることも珍しくありませんでした。銀閣寺の名物として知られたのが、白川餅・わらび餅・銀閣寺名物の麩。白川で摘まれた季節の花を売る花屋もありました。第6章で詳しく扱う「白川女」の花売りの原型は、すでにこの参道の風景の中に描かれているのです。
ただし、ここで注意しておきたい歴史的な前提があります。現在の「銀閣寺道」交差点(白川通×今出川通)は、江戸時代には存在しませんでした。白川通そのものが明治末〜昭和初期に新設された道路で、江戸期の参道は今出川通の東端から銀閣寺総門まで直接続いていたのです。図会で描かれている「賑わいの一本道」は、いまの白川通とは別物——もう少し東寄りの、現在の銀閣寺道商店街〜哲学の道北端あたりに重なるルートでした。図会を片手に現代の街を歩くときには、この「ずれ」を頭に入れておくと、見えてくる景色がぐっと立体的になります。
現代の「銀閣寺道」バス停・交差点(白川通×今出川通)。江戸期にはまだ田畑だった土地ですが、いま観光客が降り立つこの交差点の東側、銀閣寺総門までの約400mの道筋が、240年前の図会に描かれた賑わいの参道とほぼ重なります。Bello Vero から南へ徒歩7分、銀閣寺へ向かう人波を眺めながら、図会の鳥瞰の視点を思い出してみてください。
CH. 2.3鳥瞰の謎 — 大文字山という「展望台」
『都名所図会』を初めて開いた人がまず驚くのは、絵師・竹原春朝斎がドローンも気球も存在しない時代に、なぜここまで正確な鳥瞰図を描けたのか、という素朴な疑問です。実際にはもちろん空から見たわけではなく、複数の地点から得た見取り図・実測図・古絵図を組み合わせ、絵師の頭の中で「上空からの視点」を合成する手法が取られていました。けれど、その視点を確かなものにするために、絵師たちが頼った場所がひとつあります。銀閣寺の真上に立ち上がる大文字山(如意ヶ嶽の西峰、標高465m)です。
大文字山は、京都盆地の東縁にそびえる東山三十六峰の一座。山頂より少し下、標高約300mの斜面に、五山送り火の「大」の字を形作る火床がいまも残されています。火床は全部で75基。第一画(横線)の長さは80m、第二画(左払い)が160m、第三画(右払い)が120m。毎年8月16日の夜、ここに点火された炎が、京都盆地のどこからでも見える「大」の字として浮かび上がるのは、ご存じの通りです。
大文字の送り火がいつ始まったのか、じつは確かな記録は残っていません。平安期に弘法大師・空海が始めたという説、室町期に足利義政が亡息・義尚の追善のために灯したという説、いずれも後世の伝承で、一次史料はありません。送り火が宗教行事であるがゆえに、起源があえて文書化されなかった、というのが現代の通説です。
江戸期の文人や絵師は、この火床まで実際に登り、京都盆地を一望することで、街の全体像を身体感覚として掴んでいました。竹原春朝斎が描いた鳥瞰の視点も、おそらくこの斜面で得た実体験が下地になっているはずです。Bello Vero の店内から東を見上げると、その大文字山の中腹あたりが見えています。240年前の絵師がそこに立ち、いま私たちの店がある北白川の田畑を見下ろしていた——そう思うと、いつもの夕景が少しだけ違って見えてきます。
大文字火床(だいもんじ ひどこ)。銀閣寺の西側、八神社の脇から登山道に入って、徒歩約30〜40分。標高約300mの斜面に、75基の火床がそのまま残されています。眼下には京都盆地が一望でき、晴れた日には大阪のあべのハルカスまで見渡せる、京都市内屈指の展望スポット。江戸期の絵師がここに立って京都を眺めていた——その視点を、240年後の私たちも追体験できる場所です。
CH. 2.4図会から続く道 — 哲学の道と「桜の景」
『都名所図会』の銀閣寺の項を読むと、慈照寺の北側に流れる小川と、その畔の桜並木のことが言及されています。じつはこの小川——いまの哲学の道のルート——は、江戸時代にはまだ「観光地」として整備された道ではありませんでした。銀閣寺と若王子のあいだに広がる山裾の小径で、地元の人と参拝者だけが歩く生活路だったのです。
この道が現在の姿に変わるのは、明治以降。本サイト第1章でも触れたとおり、1890年(明治23年)に琵琶湖疏水分線が完成し、蹴上から若王子・銀閣寺橋まで全長3.3kmの水路が通ります。疏水管理のための小径として整備されたのが、いまの「哲学の道」の前身。明治後期からこの一帯に文人・画家・哲学者が住みつき、「文人の道」と呼ばれるようになっていきました。
「哲学の道」という名前が定着したのは、もう少し後のこと。京都帝国大学の哲学者・西田幾多郎(にしだ きたろう、1870〜1945)と弟子の田辺元らがこの道を散策しながら思索したという回想が広まり、戦後しばらくは「思索の道」「散策の道」「疏水の小径」など複数の呼び名が併存。1972年(昭和47年)、地元住民の保存運動を契機に「哲学の道」が正式名称として定められ、現在の呼び名に落ち着きました。1981年(昭和56年)には法然院近くの道端に、西田の和歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」を刻んだ歌碑が建てられています。
『都名所図会』に描かれた銀閣寺北側の桜並木と、いまの哲学の道の桜並木は、樹そのものは異なれど、水と桜と参道という景観の骨格は変わっていません。240年前の旅人が「桜なら銀閣寺」と書き残したその眼差しは、現代の私たちが春に哲学の道を歩くときの感動と、たぶんそう遠くないところにあります。
哲学の道の北端は、銀閣寺橋の南側から始まります。疏水分線に沿って、若王子神社まで南へ約1.8km。Bello Vero から銀閣寺方向へ徒歩7〜8分で道の北端に到達できます。中ほどの法然院近くには、1981年に建てられた西田幾多郎の歌碑が静かに立っています。
CH. 2.5江戸の旅メディアの広がり — 各地の名所図会と60余冊の系譜
『都名所図会』が1780年に成功を収めた直後から、京都の版元と絵師たちは「名所図会」というフォーマットを各地の名所に展開していきます。秋里籬島自身が、京都を皮切りに、和泉・摂津・東海道・木曽路といった全国の名所図会を立て続けに刊行。明治期までに、名所図会と呼ばれる出版物は約60余冊が作られたと推定されており、江戸後期から明治初期にかけて、日本の地誌出版の主流フォーマットになっていきました。
秋里籬島が手がけた主要な名所図会には、以下のものがあります。『大和名所図会』(1791年)、『和泉名所図会』(1796年)、『摂津名所図会』(1796〜98年)、『東海道名所図会』(1797年)、『木曽路名所図会』(1805年)、『河内名所図会』(1801年)、『近江名所図会』(1797年)——いずれも本文を秋里、挿絵を竹原春朝斎や他の絵師が担当する分業体制。京都発の「鳥瞰図+本文+和歌俳諧」というフォーマットが、全国の地誌に応用されていきました。
京都に関する名所図会のシリーズも、『都名所図会』の後に複数刊行されました。『都名所画譜』『京都名所順覧記』『京都名所撮影』(後者は明治期の写真集形式)など、版元・編者・形式を変えながら、京都の案内書は19世紀を通じて連続的に作られつづけました。国際日本文化研究センターの「平安京都都名所図会データベース」(nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/)では、これらの主要8タイトル(都名所図会/拾遺都名所図会/都林泉名勝図会/花洛名勝図会/花洛細見図/都名所画譜/京都名所順覧記/京都名所撮影)が高精細画像で一括検索・閲覧できるようになっています。
面白いのは、こうした出版ブームの背後にあった「江戸期の流通インフラ」です。名所図会は単なる読み物ではなく、街道沿いの宿場・茶屋・寺社が「土産物」「観光広告」として買い、旅人が次の旅先を選ぶための参考書として活用しました。京都の版元が刷り、街道筋の商人が運び、宿場で売られ、旅人がふところに入れて持ち帰る——という、近世日本特有の出版流通エコシステムのなかで、名所図会は機能していたのです。
明治以降、近代的な活版印刷・写真製版・カラー印刷の技術が入り、名所図会の系譜は絵葉書・観光案内書・写真集へと姿を変えていきました。第4章で扱う黒川翠山の写真集や、便利堂の文化財写真の系譜も、突然現れたのではなく、240年前の竹原春朝斎の鳥瞰図から連続する「京都を絵で見せる」メディアの長い流れの末端に位置しています。Bello Vero CITY ARCHIVE もまた、その流れの今日的な分岐のひとつ、ということになります。
CH. 2.6図会以前と図会以後 — 京都案内書の系譜
『都名所図会』は突然現れた一冊ではありません。江戸初期からおよそ120年にわたる、京都案内書の積み重ねの上にようやく結晶した到達点でした。最初に刊行された京都ガイドブックは、1658年(万治元年)の二冊——山本泰順『洛陽名所集』と、中川喜雲『京童(きょうわらべ)』。後者は神社仏閣・名所旧跡の由緒と俳諧・狂歌を組み合わせ、文字情報中心ながら、すでに「読み物としての地誌」という方向性を打ち出していました。
その後、京都案内書は徐々に絵を増やしていきます。1704年(元禄17年)の『花洛細見図(からくさいけんず)』(金屋平右衛門刊、全15巻)は、社寺・故事・年中行事・名所を絵入りでまとめた大著。『山城名所記』『京童』『京羽二重』『雍州府志』を典拠としつつ、視覚情報の比重を一気に高めた、江戸版「ストリートビュー」とも言える出版物でした。
そして1780年、文と絵の両輪が完成したのが『都名所図会』。さらに19年後の1799年(寛政11年)、秋里籬島は佐久間草偃・西村中和・奥文鳴の三絵師を起用して『都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)』全5冊を刊行します。こちらは京都の名園・茶亭142点に絞った庭園特化版で、銀閣寺の砂の庭——のちに「銀沙灘・向月台」と呼ばれることになるあの白砂の景観——が、初めてまとまった絵入りで紹介された出版物でもあります。
図会という形式は、その後も明治・大正へと引き継がれ、写真集や絵葉書、戦後の旅行雑誌、そして現代のSNSへと、メディアを変えながら「京都の景観を共有する」営みを支えてきました。Bello Vero CITY ARCHIVE もまた、そんな長い系譜の末端にある、ささやかな「令和の図会」のひとつなのかもしれません。
『都名所図会』が銀閣寺参道の茶屋を描いたように、Bello Vero も自分たちの店の小皿と、北白川の今の風景を、毎週ジャーナルに書き残しています。240年前の旅メディアの末席に、私たちも勝手に座らせてもらっている気分です。
CH. 2.年表京都ガイドブックの系譜
| 年代 | 書名・出来事 | 内容 |
|---|---|---|
| 1658年 | 『京童』 中川喜雲 | 京都最古級の刊本ガイドブック。神社仏閣の由緒と俳諧を組み合わせる。 |
| 1658年 | 『洛陽名所集』 山本泰順 | 京都300名所を採録、和歌を添えた地誌書。 |
| 1704年 | 『花洛細見図』 金屋平右衛門 | 絵入り15巻の大著。江戸版「ストリートビュー」。 |
| 1780年 | 『都名所図会』 秋里籬島/竹原春朝斎 | 本文6巻・全11冊。江戸期最大級の地誌書、京都観光のスタンダードに。 |
| 1787年 | 『拾遺都名所図会』 秋里籬島 | 続編。本編で取りこぼした寺社・景勝を補完。 |
| 1799年 | 『都林泉名勝図会』 秋里籬島ほか | 京都の名園142点に特化。銀閣寺の白砂景観を初紹介。 |
| 1890年 | 琵琶湖疏水分線完成 | 哲学の道の前身となる管理用小径が整備される。 |
| 1972年 | 地元住民 | 疏水沿いの小径が「哲学の道」として正式命名される。 |
| 1981年 | 京都市 | 哲学の道に西田幾多郎の歌碑が建立される(法然院近く)。 |
| 2026年 | Bello Vero CITY ARCHIVE | 北白川の小さなイタリア食堂が綴る、令和の名所図会。 |
CITY × DINNER240年前の旅人の足取りで、今日の夕食を
銀閣寺道、哲学の道、大文字火床——歩き疲れたら、ここから徒歩7分。
Bello Vero(ベッロベーロ)は、京都・北白川の小さなイタリア食堂です。22時まで通し営業しているので、午後の散歩のあと、ゆっくり夕食をどうぞ。
- 銀閣寺道バス停から徒歩約7分
- 13:00〜22:00 通し営業(月曜定休+不定休)
- カウンター席あり・お一人様歓迎
- ベジタリアン・グルテンフリー対応可
CH. 2.資料主要な「プロデューサー」
秋里籬島(あきさと りとう)
江戸後期の俳諧師・読本作者。京都を拠点に活動。生没年不詳、安永〜文政期(1772〜1830頃)に活躍。本姓は池田、字は商佑、号は籬島・籬島散人・籬島軒。『都名所図会』を皮切りに、和泉・摂津・東海道・木曽路など全国の名所図会シリーズを次々と手がけ、「図会」という出版形式を全国に広めた人物。
竹原春朝斎(たけはら しゅんちょうさい)
大坂を拠点とした浮世絵師・絵本作者。『都名所図会』の精緻な鳥瞰図で名を残す。複数の見取り図と古絵図を頭の中で合成し、空から見たような景観を平面に再構成する技術に長けていた、江戸期最大級の景観絵師の一人。
『都名所図会』
1780年(安永9年)8月刊行、本文6巻・全11冊。版元は吉野屋為八ほか。京都の社寺・名所だけでなく山城国一円に範囲を広げ、和歌・漢詩・俳諧・故事来歴を併載した江戸期最大級の地誌書。京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(RB00008617)で全ページが公開されている。
CH. 2.出典参考文献
- 秋里籬島『都名所図会』全11冊(1780年)/『拾遺都名所図会』(1787年)/『都林泉名勝図会』(1799年)
- 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ「都名所図会」 RB00008617
- 国際日本文化研究センター「平安京都都名所図会データベース」
- 京都府立京都学・歴彩館「先人達の京都研究」
- 京都市「文化史30 大文字五山の送り火」
- 哲学の道保勝会・京都市左京区
- 京都市歴史資料館 編『京都の歴史』各巻
- 白幡洋三郎 校注『都林泉名勝図会』講談社学術文庫